仕事にやりがいを感じられない、自分が本当は何がやりたいのかわからなくなってしまった。
自分が選んだ仕事が本当に自分に向いているのかが分からず、こういうことをいつまでも考えてしまうことがよくある。
そんな私が仕事に行き詰まって落ち込んだときに読んで心が軽くなった本。
著者は精神科医でありながら、パリの音楽院に留学したこともある珍しい経歴の持ち主。
本題の仕事と生きがいとのかかわりの他にも、現代社会を生きる私たちが抱えている問題についても触れられてる。
消費社会と受動的な人間
筆者はこのことを、アメリカで活躍した精神分析家エーリッヒ・フロムの講演に絡めて考察。以下はフロムの講演の引用。
落ち込んだ人間は、自分が空っぽに感じる。(中略)そこで、何かを摂取すると、からっぽだとか、萎えたとか、弱ったとかいう感じはしばらく消えて、自分はやっぱり人間だ、確かに何かを持っているし、無ではないと知覚する。人は自分の内の空虚を追い払うために物を詰め込む。これが受動的な人間なのである。彼は自分がちっぽけだという不安を持ち、その不安を忘れようとして消費し、消費人となる。
分かりすぎる。去年の今頃、コロナ自粛で何をしたらいいか分からず時間を持て余しているように感じてひたすら韓国ドラマを貪り観ていた自分。
愛の不時着と梨泰院クラス面白かったな…。
たとえ積極的に見えるような行為でも、それが空虚さを埋めたいという心理から来ている以上は、「受動」的で、それが消費社会において特徴的な行為なのだそう。
「仕事」と「労働」の違い
- 人間の熟練や専門化によってなされる活動が「仕事」であり、バラバラな断片に分業化された活動が「労働」。産業革命以来始まった大量生産がこれを助長した。
- 「仕事」は人間ならではの永続性のある何か、例えば道具や作品のようなものを生み出すが、「労働」は人間が生命や生活の維持のために必要に迫られて行う作業。そこで生み出される産物は、消費される性質のもので、永続性を持たない。
私たちが汗水垂らして必死こいてやっているものは、仕事ではなく労働らしい。
マルクスの資本論にも同じようなことが出てくるが、産業革命による作業の機械化・大量生産化によって、生産は分業化し、一人ひとりの作業はそれ単体では意味をなし得ないものになったというわけだ。
さらに恐ろしいことに、消費人たる現代人の私たちは、労働によって生み出された消費財を狂ったように消費する、というある意味完璧なサイクルが出来上がっている。切ない。
現代人の「有意義病」
- 「価値」というものが「お金になる」「知識が増える」「スキルが身につく」「次の仕事への英気を養う」等々、何かの役に立つことに極端に傾斜している。
- 「意義」という言葉もそういう類の「価値」を生むことにつながるものを指すニュアンスになっている。
これもめちゃくちゃ身に覚えがある。社会人になった頃あたりから、休日だらだら過ごすことへの恐怖を感じるようになった。
仕事にもプラスになるからと資格や語学の勉強をしたり、余暇には仕事の対比として仕事っぽくないレジャー的なことをしなきゃ、という考えに囚われたり。
一見いいことのようにも思えるこういう積み重ねが、実は私たちの自由を蝕む病理だった。
もしかしたらブログを書くという行為も、純粋な楽しさからくるものでないならば、この有意義病の症状の一つなのかも。
「理想の職業」は幻想?
- 「真の自己」が自分の内ではなく外に想定され、それが既に社会に用意されている「仕事」とのマッチングで実現するという考え方は、人々を終わりなき「自分探し」、「仕事探し」に追い込む。
- 一個の人間は、ひとつの職業に包摂されるほど小さくはない。
- 世の中に用意されている「仕事」の多くは、手応えの少なく断片化された「労働」。
真の自己は仕事とのマッチングで実現するものではないという。バッサリ。
私たちは、「仕事」に多くを期待しすぎているのかもしれない。
つまり、本当の自分を探すこと、生きる意味を求めることが幸福になるための手段なのだとすれば、それを今日日「労働」に成り下がってしまった「仕事」に求めるのは合理性を欠いている。
本書のタイトルにもなっている「仕事なんか生きがいにするな」の「仕事」とはまさに「労働」としての今日的な「仕事」であり、逆に言うと、本来の意味での「仕事」を労働の中に取り戻そうということも言っている。
では、どうすればいいの?ということについては、以下が具体的な行動指針になりそう。
⑴「労働」の中に「仕事」を見出す
たとえ「労働」に従事せざるを得ない場合においても、それをいかに自分が「仕事」と呼べるものに近づけていけるかを工夫してみる。
普段のルーチンワークに自分なりのアイデアとか工夫を乗っけてみるとか。
労働に仕事を見出すのもいいそうだけど、なかなかそれができないことも多いので、労働以外の普段の生活にも、「仕事」と根源を同じくする「遊び」の要素を取り入れるとよいとのこと。
⑵日常に遊びを取り入れる
日常を死んだ時間として過ごすとその退屈さに耐えるために感性が硬直し、ある時素晴らしい非日常的体験をしても感動できない。
日常をいかに工夫して遊び、非日常化するかが大切。
料理、即興の行動、無計画、面倒くさいことをあえてやる、独学などをしてみる。
心の赴くまま気軽にやってみる。人生の暇つぶしとして「遊ぶ」。
心の向くまま気の向くまま、気軽にやってみる。
気が向かなければやらない。
もうちょっと童心に帰るというか、気楽にやったほうがいいのかもしれない。
やりがい、夢、目標。私たちのまわりではこういう言葉が幅をきかせているけど、そもそも労働という枠に収まっているものを目標にしても仕方ない。
仕事は生きがいでなければならない、そんな強迫観念は捨てて、もっと遊ぶべき。