NHKの好きな番組

NHKドキュメント72時間が好きだ。

まず、ラストの挿入歌がいい。最初に挙げるべき点ではないかもしれないが。内容うんぬんとかじゃない。この番組を知ってはじめの頃は、半ばこの歌を聞くために見ていたところすらある。

この番組には、辛い経験をした人、その最中にある人なんかがけっこう出てくる。

こういうドキュメンタリーって、自分よりも大変な人生を送っている人の生活を切り取って覗いて観察して、それで、ああかわいそうだ、自分はこの人たちよりはましだ、とか思ってしまうもので、スラムツーリズム的な側面がある。

本来そういう消費のしかたは醜悪だ。

それでも、そこに出てくる人たちの、見ず知らずの他人であるところの取材クルーにぽろっと大事なことがつい口をついて出てしまったような瞬間や、どこかあっけらかんと語るような姿に目が離せなくなる。

何よりも胸を打たれるのは、自分以外の誰にでも、自分と同じように、それぞれの人生があるということがはっきりとわかることだ。

そんなことは当たり前だと言われるかもしれないが、このことを真に意識して日々生活することはとても難しい。

真正面からの取材ではなく、ある特定のテーマを切り口に、深追いすることなく見せている。定点取材がそれを可能にしている。

それが視聴者としても、距離が近すぎなくてしんどくないというか、ちょうどいいのだ。

ついでに、ナレーションを誰が担当しているかを予想するのも、密かな楽しみだ。けっこう有名な俳優であることが多い。

よくドラマなどで演技を目にする俳優のナレーションに想像とギャップがあると、その俳優の新しい顔を見たようで嬉しくなる。

最近だと勝地涼のナレーションがとてもよかった。声が格好よかった。テンポも早めなんだけど、それも悪くなかった。

いまいちおしの番組。

 

ポジティブはいいことか?

ポジティブ思考が苦手だ。

そういうことを口にすること自体が負け惜しみみたいで、気まずさのようなものを感じるからだ。

それに、問題を見えにくくしてしまう。そうしたところで、問題があることには変わりない。いったん受け入れることで、苦しむのも仕方ないのではないか。そしてひととおり苦しんだあと、寝て忘れるみたいな解決策をとったっていいではないか。

それは根本的な解決ではない、悩みが消えたわけではない。でも、悩みをなかったことにはしていない。

わたしは悩みすらも自分の一部だと思うので、なかったことにはしたくない。

 

ポジティブな人、本心でそう思ってるのか?とても気になる。

本心だとしたら、それはそれで幸せなのだろうか?

死にたいけどトッポッキは食べたい(読書記録)

 

 

まず何といってもタイトルが秀逸。
「死にたい」という極端で究極な言葉と「トッポッキ」という韓国でメジャーで気軽に食べられるスナックという普通の言葉との組み合わせがすごい。トッポッキが食べたいという普通のこと、あるいはとるに足らない小さな願望のすぐそばに「死にたい」という行き詰まりが同居しているその矛盾、ぐちゃぐちゃさが著者の置かれた状況のままならなさをそのまま表しているよう。

この本はエッセイだが、著者が精神疾患のためのカウンセリングを受けている様子なども赤裸々に明らかにしている。

著者と精神科医とのやりとりは、心に問題を抱えた人が陥りがちな思考の癖がどのようなものであるかを示してくれている。
カウンセリングを受けている時の著者の話のしかたは出来事に対する無理な自己関連づけとそれに伴うネガティブな思考回路にもとづいていて、側から見れば非論理的なものなのだが、当の本人にとってはそのような考え方がデフォルトで染み付いてしまっていてなかなか脱け出すことができない。
考えすぎだよそんなの、と無関係な人間からは無責任に言い放つことはできるが、本人からしたら考えすぎているなどという意識は毛頭ない。
そのことが精神疾患を抱えた人とそうでない人との認知の乖離を示唆していて、興味深い。

患者と医師とのカウンセリング記録を読むことってなかなかなく、貴重な体験だった。精神疾患患者の持つ無意識な思考の癖を追体験していくことは、自分自身がそのような思考の癖に陥っていないか、それで苦しくなってしまっていないか、ということを立ち止まって考えさせてくれる。

虚無GW

ゴールデンウィークまじで何もしなかった。時間があってもすることがない。YouTubeやらTwitterやらで虚無な時間を過ごして終わった。いよいよ、空っぽな自分に耐えられなくなってきた。

以前はてな匿名ダイアリー(通称:増田)に無趣味で時間が有り余っていて辛いと書き込んだら子育てをしろと言われたけど、時間が有り余っているから子どもをもうけるなんて子どもに対して申し訳なく面目なさすぎてできない。
しかも出産とか痛そうだし普通に命の危険を伴うし怖くてそんな動機じゃできない。
ただ無邪気に結婚適齢期が来たからという理由だけで結婚も出産もしたいと思えるほど家庭に夢を持っていない。

一人でいることが寂しいという動機もよくわからない。
むしろ誰かと付き合う、一緒にいるのはそれだけで自分にとってはすごく負担だ。

誰かに合わせることはそこまで苦手ではない。問題は、自分のやりたいことを相手にやらせることに尋常ならない心の負担を感じることだ。
趣味を共有できてうれしい❣️とはならない。

やりたいことは自分一人でやっている方が気が楽なのだ。

でもそうすると恋人との時間は私に主体性がなく私がただ相手に合わせるだけになり自分の意思のなさあるいはつまらなさに打ちのめされてしまうのだ。
恋人の知らないところでの活動が「自分は空っぽではない」という自己肯定感の源となり心の拠り所になり、結果一人で好きなことをやっている方が楽しくなる。一緒にいるメリットって結局なんだっけ?となってしまう。……何がメリットじゃ。思いやる誰かがいることはそれだけで尊いんじゃ、という心も忘れてしまう。

私には自分の置かれている状況の不幸な部分にばかり目を向けてしまうクセがある。
今だって定職があり貯金もたとえ失業しても1年くらいは路頭に迷わないくらいあり両親は健在で兄弟仲も可もなく不可もなく姪・甥にはまあまあ慕われ仕事の出来はイマイチだけど自分の興味のある分野の隅っこにいさせてもらえて……。

いやめっちゃ恵まれてるやん。
何が不満なの。

あえて自分から不満の種を探しにいこうとしているよね。

閑話休題。ひとりでいることは寂しくないし家族を作らないと今後寂しくなる、といった危機感はエゴや傲慢さを感じてしまってうまく理解できないのだけど、自分が生まれた時から一緒にいるいまの家族がいなかったら寂しい、という気持ちはすごくわかるな。

難しく考えずに適齢期が来たから結婚するぞ!くらいのノリでいいのにね。本当は。

 

というのがこの虚無GWに考えたことです。

当たり前のことでもいい

勘違いしていた。

当たり前のことに当たり前に自然に反応すること、いつしかそれがつまらないことだと思っていた。普通のことしか考えられない自分がつまらない人間であるかのように。

自分の感情をないがしろにしてきた。だからか最近、感情の動きが鈍い。

元々鈍いタイプの人間ではあったけれど、どんどん鈍化していっている。

それはたぶん、その時その時に湧いた感情を素直に表現してこなかったから。

なんてもったないない。

嬉しい時に嬉しいと、悲しい時に悲しいと言わなきゃ。

素直にならなきゃ。

最近気づいたんだけど、大人の会話を聞いていると、誰にでも言えるような普通のことを言っていることが多いんだよね。みんな特別なことはそんなに言ってなくて、それで十分なんだよね。自分だけの特別な体験や感情じゃなくて、ともすればその場に沈黙を作らないためだけにあるような軽い雑感、みたいなものでいいのだ。

よくなっているという実感

毎日がよくなっているという実感がほしい。

だからお金を貯めようと節約をするし、老化を少しでも遅らせるためのスキンケアや筋トレ、食事管理に余念がない。

昨日よりも今日、今日よりも明日がよくなっているという実感がほしいのだ。

でもときどき虚しくなる。

貯金にしてもお金を貯めて最終的に何をしたいのかがわからないし、アンチエイジグ然り、あらゆることの動機が老後困らないため、というところに繋がっている。なんともネガティブな動機だ。

よくなりたいのに、その実はマイナスをゼロにしていく作業なのだ。寂しい。

別の「よくなること」があったらいいのに。

 

「よくなる」といえば、カネコアヤノの曲「窓辺」の歌詞にこんな一節がある。

 

窓辺

 

 

嫌で解ける 日々を編む

少しづつよくなってけばいいね

 

一般的に、みるべきは前文のほうなのだと思う。
ままならない、正体ないような日々を過ごすことを「解ける」、そしてそうなってしまうのをなんとか押しとどめようとしながら過ごすことを「編む」と表現している。

でも、二文目も推したい。
抽象的なのがいい。まさに私の感じている「よくなる」ことに近いように思う。私たちって、いや少なくとも私は、人生にそんな大層な意味も見出していないし、なりたい理想像があるわけでもない。そんな生き方には刺さったのだ。

 

カネコアヤノとってもいいのでいろんな人に聴いてほしい。(結論そこ)

暇、退屈。

暇だ、退屈だ。

そう感じては、何かをやらなければいけないような気持ちになる。
大人になってから、退屈な時間を過ごすことに罪悪感を抱くようになった。

子どもの頃は退屈がここまで苦痛じゃなかった気がするけど、そんなに毎日が楽しかったかな?創造に満ちていたのかな??

見るもの全てが新しく初めてのものだったから、毎日わくわくしていたのかもしれない。大人になった今ほど要領もよくないから、目の前のことに一生懸命取り組むだけで自然に時が過ぎていったのかもしれない。

とにかく、大人になると、時間を無為に過ごしている感覚に陥る。そしてそのことに、いたたまれなくなる。

時が過ぎるのは早く感じるのに、いや早く感じるからこそ、何も成し遂げられない日々に、ただただ時間が消費されていくことへの虚しさを感じる。そうして早く過ぎ去っていった時間を振り返っては、焦燥にとらわれる。目の前の人生をがむしゃらに生きるよりも先に、計画だと嘯いて、もう人生の残り時間を計算し始めている。

コロナの流行が始まって、この無作為感、虚無感はいっそう強くなっている気がする。

そこで手にとったのがこの本。

 

 

 

現代フランス思想研究者の國分功一郎さんの本。
文庫本出たんだね・・・欲しい

 

 

人がどうして退屈を感じるのか、退屈によって人はどうなってしまうか、退屈を克服する鍵はなにかということを、文化人類学、考古学、経済学、消費社会論、動物行動学、過去の哲学者の理論など、様々な切り口を使って紐解く。

 

暇と退屈を乗り越える鍵は、贅沢を取り戻すことにあるという。

贅沢を取り戻すことが、暇と退屈を乗り越える鍵になる。

 


贅沢とは「浪費」すること。

浪費というとあまり良くないイメージの言葉のようだけれど、この本で言うところの浪費とは必要の限界を超えて物を受け取ることらしい。

つまり、対価と同じくらい、もしくはそれ以上の物を受け取ること。

浪費では物を過剰に受け取る。
物の受け取りには限界があるので、満足がいつか必ずやってくる。

これと対比されるのが、「消費」だ。私たち現代人は浪費による贅沢を享受できず、消費する事しかできていないのだという。そしてその消費は観念的であるがゆえに、私たちは満足することがない。終わりがない。消費とは物を受け取らない姿勢なのだ。

確かに流行の食べ物、イベント、音楽、ファッション…。今もてはやされているからという理由だけで消費しているものがどれだけ多いことか。若い頃、流行の服を次から次へと買っていたけど、まさにこれだったな。一つ服を買ってもまた次のシーズンには可愛い服が出てくる。流行の追求に終わりはない。

これではいつまで経っても消費のゲームは終わらない。

満足することがないから、さらに消費は続く。そこに退屈が現れる。

今の私にとってはTwitterの世界もこれに通じるものがある気がしている。次から次へと起こる政府の横暴、行政の不作為、有名人の不祥事・・・。一つ一つについていくのが精一杯。一つ一つの出来事からじっくり何かを考えて、受け取ることがない。


私たちは消費家ではなく浪費家にならなければならない。

そのためには、物を味わうこと。

私たちは手に入れたものを味わうことを疎かにしている。

これは思い当たる節が・・・。IK◯Aで買ったキレイな塗料が塗られたラック、ニ◯リで買ったプラスチック製の収納ボックス・・・。間に合わせで買っただけで全然思い入れもないし大切じゃない。時が経って愛着が湧くこともない。

(IK◯Aもニトリも大好きなんだけど…)

 

 

私の拙い読書経験や人生経験から心に浮かんだことは、今この時を贅沢に生きるということ。

贅沢に生きるとは、この時間を受け取ること。未来や過去に逃げ込まないで、今と向き合うこと。

私たちは、日々が同じことの繰り返しでつまらないと嘆くばかりで、今、この時を過ごしていない。

将来のためにと大義名分を掲げ時を過ごすことは、今を犠牲にすることだ。

北村薫の「ターン」のことを思い出した。

 

 

事故に遭った主人公は意識不明の重体に陥る。その主人公の意識の中では事故当日の1日を延々とループする。

同じことの繰り返しと思われる日々の中で、創造の種を蒔くこと。それが未来と自分をつないでくれる。

 

あとジム・ジャームッシュ監督の映画「パターソン」も。

 

 


バス運転手のパターソンの、型にはまったような、ともすれば変わり映えしない日々を描く。だけどそこにこそ光るものがある、もう少し日常を愛してもいいかもしれない。そう思わせてくれるいい映画だった。

 

日々が同じことの繰り返し、ということを歌った歌も数え切れないほどある。

 

日常にひたむきに向き合うことが私たちを幸せに導いてくれるのだと思う。