よくなっているという実感

毎日がよくなっているという実感がほしい。

だからお金を貯めようと節約をするし、老化を少しでも遅らせるためのスキンケアや筋トレ、食事管理に余念がない。

昨日よりも今日、今日よりも明日がよくなっているという実感がほしいのだ。

でもときどき虚しくなる。

貯金にしてもお金を貯めて最終的に何をしたいのかがわからないし、アンチエイジグ然り、あらゆることの動機が老後困らないため、というところに繋がっている。なんともネガティブな動機だ。

よくなりたいのに、その実はマイナスをゼロにしていく作業なのだ。寂しい。

別の「よくなること」があったらいいのに。

 

「よくなる」といえば、カネコアヤノの曲「窓辺」の歌詞にこんな一節がある。

 

窓辺

 

 

嫌で解ける 日々を編む

少しづつよくなってけばいいね

 

一般的に、みるべきは前文のほうなのだと思う。
ままならない、正体ないような日々を過ごすことを「解ける」、そしてそうなってしまうのをなんとか押しとどめようとしながら過ごすことを「編む」と表現している。

でも、二文目も推したい。
抽象的なのがいい。まさに私の感じている「よくなる」ことに近いように思う。私たちって、いや少なくとも私は、人生にそんな大層な意味も見出していないし、なりたい理想像があるわけでもない。そんな生き方には刺さったのだ。

 

カネコアヤノとってもいいのでいろんな人に聴いてほしい。(結論そこ)